名古屋高等裁判所金沢支部 昭和40年(う)95号 判決 1966年1月25日
被告人 坂本良作
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人木梨与松の控訴趣意書に記載されているとおりであるからこれを引用するが、その要旨は、次のとおりである。原判決は、本件につき、被告人に、警音器不吹鳴、減速不措置の注意義務違反があつたものとして被告人の過失責任を肯定している。しかしながら、本件事故現場は、前方見通しが良好で交通の極めて頻繁な主要道路(二級国道)たる直線砂利道で、進路左側の岩城正人方住宅前庭の出入口左右には生垣があつて、自動車で進行し来る者にとつては右出入口から道路へ出ようとする者に対する見通しが極めて困難であるが、逆に、生垣内部においては、生垣の隙間からの見通し及び騒音等によつて、自動車の往来を十分察知できる状況にあり、被告人は、当時、時速三〇粁ないし三五粁で通過しようとしたところ、突然被害者が犬に追われて出入口から路上に飛出して来るという異例の事態が生じたため、本件事故に至つたのである。そしてかかる場所を通過するに際し警音器吹鳴を要求するのは、田舎道を走る自動車はすべて警音器を吹鳴して走れというのに等しく、且つ、本件において、咄嗟に警音器を吹鳴することは無意味であつて事故の防止と因果関係がない。また、本件現場を通過するに際し、如何なる突発事態にも対応し得るように最徐行すべきことを要求することは、自動車の使命及び国道の目的に欲し交通を混乱させるもので、刑事責任上認められるべきものでない。更に、原判決は、本件事故防止のため被告人が咄嗟に右にハンドルを切る措置を執らなかつたことを指摘しているが、もし右にハンドルを切つておれば、被害者が自動車の車体に衝突した後後車輪に轢かれ被害が却つて大きくなつたであろう。そして、本件事故において、被告人が飛出して来る被害者を発見することが可能な地点及び自動車の空走距離を考慮すれば、本件事故が不可抗力であつたことが明らかである。よつて、被告人については無罪たるべきものであり、被告人に過失の刑責を認めた原判決は事実を誤認したもので破棄されなければならない。所論は以上のとおり主張する。
本件の記録を精査し、当審における事実取調の結果を参酌するに、原判決の挙示する各証拠及び当審取調に係る各証拠を綜合すれば、先ず、本件事故発生場所の状況については、次の事実を認めることができる。本件事故の発生した場所は、石川県羽咋市から同県羽咋郡高浜町を経て同郡富来町に向つて西南から東北へ走る二級国道二四九号線上で、右国道は、自動車の交通頻繁な主要道路であり事故現場付近は、屈曲なく直線をなし、道路上の見通しも極めて良好であること、しかし、本件事故発生当時における事故現場付近の右道路の状況は、幅員僅かに三・八米で、中央辺が稍高いかまぼこ型をなし、車輛が道路の片側に車を寄せて進行することは運転上困難であつたこと、本件事故を起した被告人運転の普通貨物自動車の幅員は二・三六米で、同車が本件事故現場付近の右道路の中央辺を進行する場合、車体の両側に残された道路部分の余地は僅か七〇糎余に過ぎなかつたこと、本件事故発生場所の両側のみは数戸の人家が建ち並んでいるが、右一郭を除く付近一帯の右国道沿いの両側は、人家その他の建物が稀で、田園地帯をなしており、本件事故発生場所も含めて公安委員会の速度制限及び警音器吹鳴の指定もなされていないこと。本件事故発生場所の道路沿い東北側には岩城正人方の家屋敷があり、道路との境界に沿つて松及び雑木を利用した高さ三尺ないし一丈位の生垣及び幅三・一五米の屋敷(前庭)内への出入口が設けられ、右生垣は疎雑なものではあるが、右国道を西南方(羽咋方面)から疾走し来る自動車内からの右岩城方手前における右生垣を通しての前庭内への見通しは困難であつたこと、逆に、右前庭内に佇立している者にとつては、生垣の隙間を通して国道上を見通すことは十分可能であり、しかも、走行し来る自動車に対しては、見通しによらなくとも自動車の発する騒音及び震動等により、予め察知することが容易であつたこと、被告人は、本件事故前、平素しばしば右岩城方前を自動車で通行していたが、右場所に人の姿を見ることは稀であつたこと、以上の事実を認めることができる。次に、本件事故発生時の状況については、前掲各証拠を綜合すれば、次の事実を認めることができる。即ち、被告人は、自動車運転の業務に従事していた者であるが、原判示日時に、原判示自動車を運転して前記国道二四九号線を羽咋市方面から高浜町方面へ向け時速約三五粁ないし四〇粁で進行し、本件事故発生場所たる右岩城正人方手前にさしかかつたが、警音器を吹鳴せず、前記速度のまま、同人方前を通過すべく道路略中央部を進行していたところ、進路左前方の道路に面した前記岩城方出入口を通つて同人方前庭の中から岡本絹代(昭和二六年二月八日生)が路上に走り出して来るのをその瞬間に認め急制動の措置を施したが及ばず、自動車の左前照燈付近を同女に衝突させ、転倒した同女を左前輪で轢き、その結果、同女は原判示の傷害を負つたこと、同女は、当時、岩城方の前庭で、飛出して来た犬に吠えられ、驚いて逃げ走り、自動車の接近に注意を払わず、右出入口から路上に走り出して奇禍に遭つたものであるが、前記速度で進行し来つた被告人の自動車内から、未だ路上に姿を現す前の前庭内にある絹代の姿を咄嗟の間に発見することは、右生垣の障碍のため困難であり、事実、被告人は、絹代が出入口から路上に現われる前には同女の姿を認めていないこと(原判決はその四(五)項において、原裁判所の第三回(昭和三九年一一月四日施行)検証の実験結果を援用して、出入口左門柱から四・五米手前の地点で、出入口奥三・四米の位置にある絹代を認め得ることを説示しているが、右実験結果は、様々の異つた態様を想定し得る両者の相対的位置関係の一場合について妥当するに過ぎず、本件事故発生前の両者の実際の位置関係が特定の瞬間において丁度右実験において前提された位置関係に合致したことの証明はなく、むしろ、実況見分調書及び各検証調書等によれば、両者の速度、進路、衝突地点等から推算して、両者の相対的位置関係は、衝突までのいかなる時点においても右実験において前提された位置関係に合致するような状態にはならず、自動車内の被告人から、右出入口を通して、未だ前庭の中にある絹代の姿を望見することは、同女が、出入口から走り出る瞬間近くまで不可能な位置関係にあつたものと推測されるから、右実験結果は、何等、前記認定を左右するに足らない。)そして、絹代が出入口に姿を現わした瞬間、即ち、被告人が絹代の姿を認め得るに至つた瞬間における同女と被告人の自動車との距離は、もはや、急制動の処置を執つても停車するまでに要すべき空走及び制動の合計距離の範囲内にあり、従つて、その時点においては、被告人において急制動の処置に怠りがなくても被害者において急停止しない限り事故を防ぎ得なかつたこと、以上の各事実を認めることができる。なお、原判決は、被告人が路上に走り出した絹代を約八米ないし一〇米前方に認めたものと認定してその理由を詳しく説明しているが、右説明に従つて検討するに、先ず、原判決がその四(四)項で正当に認定している。現場に印されたスリツプ痕が衝突地点の約一米手前から始まつていること(司法警察員作成の実況見分調書)、制動開始までの空走時間が〇・五秒ないし一秒で、時速三五粁とすれば空走距離が約五米ないし一〇米となること(証人山本他次の原審公判廷における供述)から考えれば、被害者発見後すぐ制動の措置を執つたとして、発見時の絹代と自動車前輪の距離は、原判決の推算とは異り約六米ないし約一一米の間に位することとなる筈であるし、また、同じく原判決が四(六)項で正当に認定している。出入口から衝突地点までの距離が二・二米であること、実験の結果、絹代と同年輩の女児一五名が犬に追われたものとして九・九米(本件事故直前絹代が犬に追われて走つた距離)を一度後を振返りつつ疾走するに要した時間の平均が約二・八秒であること(鑑定人川島久雄作成の鑑定書)から推算すれば、自動車の速度を時速三五粁とし、且つ、絹代の当時の速力を右平均値と同一であるとして、絹代が出入口に現われた瞬間の同女と自動車の前端の距離は約六・二米になることが認められるから、絹代の走り出た実際の速度に対する誤差を考慮しても、被告人が絹代を発見したときの同女までの距離を約八米ないし一〇米と推定した原判決の認定は、右距離が自動車の前端からの測定距離を意味するとすれば、稍大に過ぎ正確を欠くものといわなければならない。
そこで、以上の事実関係を前提として本件事故に対する被告人の過失責任の有無を検討する。原判決は、被告人が警音器吹鳴及び減速除行をなすべき業務上の注意義務を怠り警音器も鳴らさず漫然時速三五粁ないし四〇粁で進行した結果本件事故を惹起したものと認定している。しかしながら、先ず、警音器吹鳴の点について、本件事故発生場所は、道路交通法第五四条第一項各号所定の警音器を吹鳴すべき場所に該当しない。そして、同条第二項によれば、車輛等の運転者は、危険を防止するためやむを得ない場合に該らない限り、法令の規定により吹鳴を義務づけられている場合を除き警音器を鳴らしてはならないこととされている。本件事故発生場所は、道幅が狭く、岩城方出入口内への見通しがきかず、右出入口から不用意に路上へ走り出るような者があれば通行し来つた自動車に衝突する危険があることは認められるから、安全確保の点だけを考えれば、警音器を鳴らすに越したことはない。しかしながら、前掲道路交通法第五四条第二項の趣旨は、前記のとおり法令所定の場合を除き危険防止のため已むを得ない場合という厳格な制限の下に始めて警音器の吹鳴を許しているのであつて、単に安全確保上効果があるというだけでみだりに吹鳴することを禁じているのであり、本件事故発生場所は、狭隘な道路に面して人家の屋敷への出入口があり屋敷内への見通しが悪いとはいつても、前記認定のとおり人の出入りはむしろ稀に属し、その点で、人の交通が多くそれだけ事故発生の危険性の高い交叉点及び曲り角等とは趣を異にするし、前庭から出入口を通つて路上に出ようとする者にとつては、外方への透視及び騒音、震動等により、道路上を接近し来る自動車の存在は警音器の警笛をまたなくとも容易に察知し得るところで、当人の僅かの注意でたやすく危険を避け得られる筈であり、しかも、自動車の交通頻繁な同所で、通る自動車がすべて必ず警音器を鳴らしたとすれば、それにより得られる事故防止の安全性の増加の利益に比し警音器の騒音の煩しさも無視できぬものとなろう。
以上の諸事情を考えれば、本件事故発生場所を通行する自動車運転者にとつて、路上もしくは出入口付近に人の姿を認めその挙動態度により危険を感じた場合でない限り、警音器の吹鳴が危険防止のため已むを得ないものということはできず、警音器吹鳴の注意義務はないものと解するのが正当である。そして本件において、被告人が、右場所にさしかかるに際し絹代が走り出るに先立つて人影の発見等により具体的危険を感じた事実は認められないから、警音器不吹鳴の点に過失を認めることはできない。次に徐行義務の点につき検討する。前記認定に係る本件事故発生場所の状況を考慮すれば、道幅の狭い場所を車幅の広い被告人運転の普通貨物自動車が車体の両側と道路の両端の間に僅か七〇糎位の余裕しかない状態で進行する以上、見通しの困難な前記出入口内から突然人が不注意に進出して来た場合には、これを避ける余地が乏しく、接触、衝突する危険のあることは否定できず、その危険は、急制動の場合の空走及び制動距離の関係上、速度が大である程大きくなることも明らかであるから、(原裁判所の昭和三九年六月六日施行の検証調書によれば、本件事故を惹起した普通貨物自動車を用いて本件事故発生場所で行なつた実験の結果、右自動車は、時速三五粁で前輪三・六米、後輪五・八五米のスリツプ痕を生じたこと、また、原審証人山本他次の原審公判廷での供述によれば、急制動作動までの空走時間は約〇・五秒ないし一秒であることが認められる。)本件事故発生場所を右自動車で進行する被告人の側にも右場所の状況を考え進行速度に意を用いるべき業務上の注意義務があることを全く否定することはできない。しかしながら、前示のとおり、被告人の進行し来つた道路は、自動車の交通頻繁な主要道路たる国道で、しかも、付近は、右場所の一郭を除き道路沿いに人家もない田園地帯であること、本件事故発生場所は、私人の屋敷への出入口があるだけで、交叉点と異り人の出入りも稀であること、しかも、右出入口を通り前庭内から路上へ出ようとする者は、僅かの注意により路上の自動車の接近を認識してたやすく接触し衝突の危険を避け得ること及び高速度交通機関たる自動車の機能を考慮すれば、右場所を通行する自動車と右出入口から路上に出ようとする者の接触、衝突の事故を防止するための主たる注意責任は後者の側にあると解するのが注意義務の分配上衡平且つ合理的であると解せられるから、右場所を通行する自動車運転者に要求さるべき適正な進行速度維持のための減速の程度にも自ら限界が存すべきである。右の観点から考察するに、本件事故当時の時速約三五粁ないし四〇粁という被告人の進行速度は稍大に失し、現場の地形及び自動車の状況等から常識的に判断して、およそ時速三〇粁未満程度まで減速して通過するのが自動車運転者としての業務上の注意義務に違わない措置であつたと思料されるけれども、右の程度の減速をしたとしても、本件衝突事故の発生を防ぎ得なかつたことは、前記認定に係る本件における絹代の走り出た瞬間の相互の距離関係、被告人の自動車の制動距離及び制動作動までの自動車の空走時間等によつて窺い得るところであり、少なくとも、右の程度の減速があれば、本件事故を防止し得たことの証明はたいから、被告人が右の程度の減速をしなかつたことに過失があるにしても、右過失と本件事故の発生との間の因果関係は証明がないものといわなければならない。しかるに、原判決は、本件につき、被告人に警音器不吹鳴の点に過失を認めた外、被告人が岩城方庭から道路に出る者を発見した場合には、如何なる条件においても直ちに停車して接触、衝突等の危険を避けることができるよう減速徐行すべき業務上の注意義務を有するかの如く判断して、被告人が右措置を執らなかつた点にも過失を認めており、原判決のいう減速徐行なるものが、数字的にどの程度の速度を指すのか明らかでないが、判文の文字どおり、前庭から道路に出る者を発見した場合に直ちに停車して接触、衝突等の危険を避けることができる程度の速度(そのためには、前記の時速三〇粁未満程度の速度では足りず、著しい低速を要求されることとなろう。)を意味しているとすれば、注意義務配分の衡平と合理性に反して、突発的な異常事態のため、被告人に自動車運転者として過当な減速の注意義務を求めるもので、前記警音器不吹鳴の点と併わせて、被告人に対し右の点に過失を認めた原判決の見解には、業務上過失傷害罪に関する法令の適用を誤つた違法があることとなるし、また、もし、原判決のいう減速徐行なるものが、本件において、常識的に適正な速度と考えられる前記三〇粁未満程度の速度を指すものとすれば、過失と本件事故の間の因果関係の証明がないのに犯罪の成立を認めた点に事実の誤認があることとなる。そして、右法律適用の誤りもしくは事実誤認は判決に影響することが明らかである。(なお、原判決は、被告人及び弁護人の主張に対する判断(+)において、被告人が把手を多少なりとも右に切る措置をも併わせ講ずれば事故を避け得た旨説示するが、絹代を発見したときの同女までの距離、自動車の速度等当時の状況を考慮しても、被告人が右の手段を執ることにより衝突を避け得たことの証明はないというべきである。)従つて、原判決は破棄を免れず、論旨は理由がある。
よつて、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条(事実誤認につき)もしくは第三八〇条(法令適用の誤りにつき)により、原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により、更に次のとおり判決する。
本件公訴事実は別紙のとおりであるが、前記のとおり、本件過失の内容とされている警音器不吹鳴の点は、自動車運転者としての業務上の過失に該当せず、減速徐行をしなかつたという点は、結果の発生との間の因果関係の証明がない。なお、当時被告人が前方注視を怠り、ために岡本絹代の発見が遅れたことの証拠もない。従つて、本件は犯罪の証明がないこととなるから、刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をすることとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 小山市次 斎藤寿 高橋正之)